津軽三味線

TUGARUSYAMISEN

津軽三味線について

 名峰「岩木山」の麓、津軽地方で約百年ほど前に津軽三味線が生まれました。しかし津軽三味線が世間から三味線音楽として認められ始めたのは昭和39年の東京オリンピック前後ということです。それまでは津軽三味線は邦楽三味線からは軽くみられていたようです。現在では日本の若者に最も人気のある日本の楽器になりました。そして国境を越えて広がり始めています。

津軽三味線のルーツ

 津軽三味線のルーツは坊様(ぼさま)と呼ばれた目の不自由な男性の門付け芸だったということです。津軽では坊様は「ホイド」(乞食)とも呼ばれ軽蔑されていたためホイド音楽とみなされていました。そのような悲しく惨めな歴史がありました。

津軽三味線の始祖「仁太坊」

 「仁太坊(にたぼう)」本名・秋元仁太郎(あきもとにたろう)は江戸時代末期の安政4年(1857年)青森県・金木町に生まれました。生後間もなく母を失い、疱瘡のため8歳で失明してしまいました。当時、目が不自由になった少年は「当道座」に入って職に就くようになっていました。当道座には、検校・別当・勾当・座頭の4階級がありましたが、「仁太坊」は四民以下の最下層の子供であったため座頭の弟子にもなれませんでした。失明した「仁太坊」に父三太郎は一本の笛を与えました。この一本の笛が「仁太坊」を生き返らし才能を開花、尺八との出会いがより深い音楽の世界へ導くことになったということです。失明して1年も経たぬうちに天才が発露しました。その後、たまたま出会った目の不自由な女芸人の三味線の演奏に衝撃を受け大感動します。そして三味線を習いたい衝動を抑えられず教えを請います。父三太郎も「仁太坊の生きていく道は三味線しかない」と女芸人にお願いしました。取りつかれた様に練習する「仁太坊」の三味線の腕はめきめき上達していきます。門付けの基本を女芸人から学びました。

「叩き奏法」を生み出す

 門付けを続けるうちに、好奇心が強くチャレンジ精神の旺盛な「仁太坊」はつまびくような奏法から強く撥で弦を打つような奏法に変えました。しだいに「仁太坊」の三味線は知れてゆき、どこの祭りでも抜群の人気坊様となります。そして義太夫三味線(太棹三味線)と出会います。それまでは細棹でした。迫力のある音を出すには太棹でないとだめです。21歳でマンと結婚します。マンはイタコでした。「仁太坊」はイタコ修行に憧れ実際に修行をします。激しいイタコ修行の後「アドリブと叩き手」という新しい奏法が生まれたのです。

「仁太坊」の弟子たち

 「仁太坊」の三味線に感動した目の不自由な少年達が弟子になりたくてやって来るようになります。『人真似だば、猿でもできる、人真似でない、汝の三味線弾け』と弟子に言います。創意工夫、個性的な自立した三味線を目指せということです。「仁太坊」は多くの弟子たちを世に出しました。中でも後世に名を残す優れた4人の弟子が生まれました。喜之坊、長作坊、嘉瀬の桃、白川軍八郎です。しかし津軽三味線は坊様三味線であり、弾き手は軽蔑されることは変わりません。世間に認められる音楽にはなれませんでした。その後、昭和になり木田林松栄、高橋竹山、三橋美智也など名手が生まれ、人々の意識・価値観も変わり、津軽三味線は世間に認められるようになりました。今では世界に誇れる日本の楽器、音楽になりました。                                                                                
参考文献「みんよう文化、津軽三味線物語、大條和雄著」