和太鼓
WADAIKO
和太鼓の種類 | |
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長胴太鼓(宮太鼓) 典型的な日本の和太鼓は、一本の木をくり抜いて、胴を膨らませた「くり抜き胴」の太鼓です。重量感があり木目が美しく、深く大きい音が出て腹に響きます。原木は「欅(けやき)」「楠(くすのき)」「栓(せん)」「タモ」などの広葉樹です。最も良いのは欅の太鼓で、堅く頑丈で長持ちし、縁打ちにも耐え、「鋲留め」もしっかりできます。太鼓に張る皮は「牛革」です。太鼓の大きさは、面の直径で表します。一尺八寸、二尺五寸などと言いますが、一尺は30.3cm、一寸は3.03cmですので一尺八寸は直径約55cmの太鼓になります。 |
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桶胴太鼓 板を張り合わせて竹のたがで締めた太鼓を、「桶胴太鼓」といいます。檜や杉の板を使いますが、特徴は軽いため担いで叩けますし、北陸・東北で伝統的に叩かれいるような巨大な桶胴を作ることもできます。「かつぎ桶」という演奏方法があり、青森県岩木山のお山参詣の囃子が有名です。それを「鼓童」が学び右手一本で両面を打つ奏法ができました。 |
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締太鼓 皮を胴に鋲打ちする太鼓に対して、皮を胴を挟んで紐で結んで留める形の太鼓を「締太鼓」といいます。締太鼓は紐の締め具合により音の調整ができます。桶胴太鼓も両面の皮を、綱で結んで固定するため締太鼓でもありますが、締太鼓は一般に胴長が短いくり抜き胴の太鼓をそう呼ぶようになっています。高く短くきれいな音が特徴です。 |
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太鼓の撥 |
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太鼓の打法 太鼓の打法には大きく分けて「横打ち」「平打ち」「正面打ち」があります。「横打ち」は八丈太鼓のように太鼓を横向きにして台に乗せて叩く方法。八丈太鼓や三宅太鼓の叩き方です。「平打ち」は太鼓の面を上にして打ち下ろす方法、「正面打ち」は顔の高さに太鼓を置き、太鼓を正面にして叩く方法で、林英哲が鬼太鼓時代に田耕氏の指導で始めた大太鼓の一人打ちや、屋台囃子の叩き方もこれになります。 |
和太鼓の起源 | 群馬県の天神山古墳に太鼓を下げた埴輪があるようです。5世紀中ごろ古墳時代の作品です。大和朝廷成立し勢力を維持したころ、仁徳天皇陵などの巨大な前方後円墳が作られたころのものですから、今から1,600年前くらい前のことです。また奈良の正倉院には多くの太鼓の胴が保存されています。奈良時代には太鼓はすでに神具として使用されていたようです。大陸から渡ってきた太鼓は、日本の木材を利用し、日本の美意識にあった「日本の太鼓」に変化していきます。日本には木の文化があります。世界中探しても、「木目」の美を追求する国はありません。日本の「わびさび」はここから来ているように思います。日本は春夏秋冬、季節がはっきりしています。日本は土壌がよいため大木が育ちます。木は春から秋に育ち、冬に育たず緻密になり、美しい年輪ができます。四季が美しい年輪を作ります。太鼓の響きは木の質と、面に使われる牛皮、そして太鼓師の伝統の匠の技できまります。 |
堀田新五郎太鼓 | 津島にある堀田新五郎太鼓は、現在26代目になります。津島は木曽三川の港があり、飛騨・木曽から良質の木材が集まりました。使われる木は樹齢300年くらいの、欅(けやき)や桜です。原木の芯を削り3年以上乾燥させます。津島の太鼓で記録にあるので一番古いのは1096年、平安時代の作の太鼓だそうです。1000年以上前からある、日本でも貴重な「ものつくり伝統」を守っているのです。今でも、由緒ある大きな神社に奉納される太鼓は堀田新五郎太鼓作られたものが多いようです。 |
神と柱 | 神を数えるのに「柱」という言葉が単位になります。豊田市に「八柱神社」があります。津島神社にも八柱神社が摂社としてありますが。主祭神は、天照太御神と須佐之男命の間で交わされた誓約(うけい)で生まれた五男三女神です。八の神を数えると八柱になるのです。大木に古来、日本人は神が宿ると考えました。神というより、里、村、集落を見守り、雨を降らせ、作物を生産させる自然の守り主の様なものを感じていたかもしれません。 長野県の諏訪にある諏訪神社では有名な「御柱祭」があります。樹木に神霊が宿るという古神道の考えから、柱が「依りしろ」として神が宿るところと考えます。山から赤松の大木を切り倒し、神社の四隅に立てる神事です。 伊勢神宮には「神明作り」社殿の下に「心御柱(しんのみはしら)」が祭られています。伊勢神宮は20年ごとに遷宮がありますが、心御柱の奉建は遷宮の祭の中で最も重要なものです。心御柱に太陽神、月の神、大地の神、天体の中心、北極星、風雨をつかさどる存在が宿ります。伊勢神宮は里村の小さな社の代表で、天地・太陽・自然環境を尊び感謝する場所なのです。 |
太鼓は神具 | 太鼓は古来、音楽のための楽器ではなく、神事行事、祭行事のみに使用される神具として存在しました。祭・行事以外に太鼓を打つことは禁じられていました。太鼓は神に通じる力があると信じられていたのです。太鼓の稽古は「ならし」という様ですが、特別の期間だけ許されていたようです。神輿・山車は祭の際に使われる仮の神殿で、そのときのみ太鼓は社殿を出て民衆の前で叩かれます。 |
太鼓と雨乞い | 日本は稲作を中心とした民族で、村里には必ず神社がありました。農民にとって太陽と雨、風そして大地は恵みは神の愛と信じていました。稲作に日の光と雨はなくてならないものです。そこで神具であり、神へ通じる力を持つ太鼓が大きな役割を持ったのです。太鼓をたたくことで雨を降らせるのです。地方の伝統的な太鼓は、「雨乞い」が起源のようです。「虫送り」という害虫駆除にも太鼓を使われました。太鼓は神霊の依り代である大木からできます。 |
武田信玄 | 神具であるはずの太鼓を、戦の場所に持ち出し、指揮系統に使用した武将がいます。それが「武田信玄」です。ただ、「御諏訪大明神」の御旗を立てて、戦も神の加護の元と言う考えだったかもしれません。士気を高めるため、戦隊の指揮命令に太鼓を利用したことは、神をも恐れぬ信玄の革命家的行動です。太鼓のリズムを変えて、戦い方を変化させたのかもしれません。これが現在の和太鼓の演奏スタイル「組み太鼓」の起源ということも可能かもしれません。 |
御諏訪太鼓の復活 | 武田信玄の元には「御諏訪太鼓21人衆」という戦の時の陣太鼓を叩く役割の者がいました。しかし、武田氏滅亡により神楽太鼓として継承されましたが、いつしか廃れたようです。しかし、譜面が発見され、諏訪の「小口大八」氏が解読し、諏訪に素晴らしい文化があることを認識、1951年(昭和26年)に御諏訪太鼓を再結成します。小口大八氏は御諏訪太鼓を通して、和太鼓の普及をします。そして海外にも精力的、日本の和太鼓文化を広めました。東京、長野オリンピックでも演奏し、日本の組太鼓の第一人者でありました。 |
八丈太鼓 | 『太鼓たたいて人様よせてな わしの逢いたい方があるよな ソラソラソノテヲカワサデウチヤレ キリヤレ』1606年関ヶ原の戦いで西軍につき負けた宇喜多秀家は八丈島に流罪となります。確たる文献はありませんが、流罪となった武士たちが、刀を撥に変え、望郷の思いを込め太平洋の荒波のように叩き始めたという伝説があります。宇喜多秀家も不自由な生活の中で、島の民に溶け込み太鼓の技を磨いたのでしょう。宇喜多秀家が八丈太鼓の始祖というような説もありますが真実は不明です。両面打ちで裏打ちの一定のリズムに合わせ、表打ちが自由に自分の打法で叩きます。武士の心意気と勇壮さに、流人である悲しみ、別れた人たちへの想いが込められた太鼓です。 |
鬼太鼓座と鼓童 | 和太鼓が特別な時だけに叩かれる神聖なものという存在から、戦後になり価値観が大きく変わりその立場から解放されます。そして太鼓は神事や神秘性から離れ、自由に打てるようになり「太鼓音楽」ができます。1970年夏に、佐渡島で「おんでこ座夏季学校」が開かれました。田耕氏が提案者で永六輔氏が呼び掛け、著明な芸術家・文化人が講師にきます。林英哲氏も参加しています。1975年、ボストンマラソンを走り切りゴールで和太鼓演奏をするという演出で世に出ます。その後、小澤征爾氏との出会いもあり、世界中で演奏をするようになります。講師も一流で人間国宝の歌舞伎囃子方故田中伝左衛門、笛の藤舎名生、太鼓の藤舎呂悦など。すぐれた民俗芸能を学ぶために直接現地に行く、古典舞踊、民族舞踊も学ぶという積極的なものでした。日本の太鼓に、日本の古典芸能の技と精神、伝統を加味して、世界に誇れる芸術にしたのです。 鬼太鼓座結成10年で、変化が起こります。発起人の田耕氏が佐渡を離れ長崎の雲仙で再始動することになります。(打雅奴の初期に指導してくれた太鼓グループは雲仙の第二期鬼太鼓座に加わって演奏活動をしていました。)佐渡に残った座員は1981年名前を「鼓童」に変えます。鼓童はプロの太鼓集団としては最も成功し、海外公演も多数こなす最も有名なグループになります。和太鼓に高い芸術性を加え、日本の太鼓を一つの音楽のジャンルにし、世界へ発信したのは間違いなく「鬼太鼓座」と「鼓童」の二つの和太鼓集団です。 |